われは両手を

われに五月を (愛蔵版詩集シリーズ)

われに五月を (愛蔵版詩集シリーズ)

友人と最近寺山修司のことを噂していました。噂っていうとなんか変ですが(笑)。寺山修司のうわさ話しに至る前段階として、井伏鱒二がまず噂の的になってました。そうしたら、昨日の朝日新聞の「折々のことば」っていうコラムに、井伏鱒二超訳」の「サヨナラダケガ人生ダ」が掲載されていて、更に寺山修司についても言及してありました。寺山修司もこの「サヨナラダケガ」を作品の中で取り上げているので、そのことについて書き加えられてあったという感じで。いや〜・・・最近の噂の的のこの2人が更にその存在を猛アピールだね、と友人と更に噂したのでした。そして今日ですが、同じく朝日新聞の同じコラムに寺山修司の「なみだはにんげんのつくる・・・」が掲載されていました。ああ、そうか、昨日ちょっとだけ寺山修司に言及してたからその続きで今日は寺山修司を単独で取り上げたんですね、と、寺山修司ファンの私は嬉しくなりました(笑)。せっかくなので突如沸いた寺山ブーム(?笑)に私も乗ることにしまして・・・・。海の日なので私の好きな海の短歌を紹介しようと思います。
 海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり
これを初めて目にしたのは私はたしか中学の時だったと思いますが、この短歌からパッと浮かんだのが、高原のサナトリウムの一室、おさげの少女がベッドに半身を起こして少年の話しに耳を傾けている、日焼けをしたランニングシャツの少年は、海がどれだけスケールの大きな自然であるかということを一生懸命説明をしている、というものでした。サナトリウムである必要はないかもしれません。多感な中学生女子(笑)が勝手に思い描いた場面ですので勘弁してくださいね。しかしながら、初見のイメージというものは勝手なものであっても塗り替え難いもので、私にとってこの短歌はそういうイメージのものになってます。さて、「われ」の広げた両手をはるかに超える無限の海の広がりというものが少女にどこまで伝わるのか、大きくて広いことを体を使って表現するというその子供じみた(「われ」が子供かどうかは実は確認できませんが、少女と同年代だろうと推測、希望 笑)様子がほほえましくもありいじらしくもあり、切なくもあり、です。
しかしですね、いやいや、この少女は山暮らしだから海を知らないだけの元気な子(ハイジみたいな?)で、そこにちょっと生意気な知った風な少年(ペーター?笑)がとくとくと海について話して聞かせているの図かもしれません。人によって見えるけしきはいろいろだと思います。というわけで・・・海の日だから海の短歌を載せてみましたが、目の前に海が浮かびにくい短歌かもしれませんです(私にとっては 笑)。